いじめと平穏

私は学生時代いじめられていた。
きっかけはわからない、いじめのきっかけなんていつもいじめる側が作り出すものだ。
それは決して許されることなく、
いじめられた側の傷は消えることなく、
その頃の絶望感や虚しさは今でもたまに思い出す。

 

殴られても蹴られても歯を食いしばることしかできず、その痛みに加えて何もやり返せない自分に対する怒りや絶望が自尊心を著しく傷つける。
この痛みから逃れるにはどうしよう、、
何とか自尊心を保つためには私も誰かをいじめるしかなかった。そうでもしないと現実を受け止めることができなかった。
見様見真似で殴った時、殴られたあの子の悲しそうな目を未だに覚えている。
それは決して許されることなく、
あの子の傷は消えることなく、
私は一生自分を責め、悔やみ続ける。
私は弱い人間だから、いじめられっ子でありながらも自分より優しい人のいじめっ子でもあった。

 

優しい人が割りを食わねばならないのはどの社会でも見受けられる不条理だとするなら、私達が安寧に暮らすためには誰かから平穏を奪わなければいけないのか?
そうではないと言いたいけれど、自分を納得できる答えがまだ見つからない。

性善説とは『人間にはもともと善の端緒がそなわっており、それを発展させれば徳性にまで達することができるとする説』だそうだ。
つまり「人の本性は本来善であるから、努力を惜しまなければ、立派な人間になることができる」ということだそう。
他者の努力を嘲笑し自らの優位意識をより強固なものにしようとする私を含めた嫌味な人間が、私をいじめ、誰かをいじめているのか。

 

奪い合いや競争のなかに平穏は見いだせない。だからといって奪われた者が泣き寝入りするなんてまっぴらだ。
外に出れば無差別的に傷つけられた者たちが今にも誰かを傷つけようとナイフを隠し持っている。

『誰かを傷つけた過去を悔い、競争社会から降り、自分を戒め欲張ることなく、、』

平穏に生きるにはまだ私には退屈すぎるから、今日も誰かを傷つけて私は傷つけられるのだろう。